反射的に「面白い!」と答えることについて

私は本当に欠点だらけの救いがたい人間であると思うが、唯一といっていい、自分でも気に入っているよいところがあります。

それは周りの人から何かアイデアやネタなんかを聞かされたときに、ほぼ反射的に「それは面白いね!」と返すところ。とにかくまず最初に「面白い」と言う。

もちろん反射的に返すので、何が面白いのか自分でも理解していないときもある。

もしかすると面白くないかも知れない。でも、まず「面白い」と言ってから、何が面白いかを自分の中で考えながら話していく。

周りに面白さをうまく説明できなければ「適当に返事してるよね?」(実際、返事自体は何にも考えずにしている)ということになるのだが、本当に面白いのであれば伝えるのは容易だし、そうでない場合、私は「面白く誤解」することにしている。

相手がどういう考えや意図で言ったのかはひとまず無視して、勝手に面白くなるように「誤解」して、「自分はこう受け取りました」と返すわけです。

相手の意図とは違っても面白くなるなら、あえて誤解する形をとる。

ポイントは相手の発言の否定でも、修正でもなく、誤解の形をとること。

その場や発言主が「元発言はともかく、そっちも面白いな」となったり、「そういう方向がよければ、こんなのも」など、とにかくアイデアが発展したり、増えていく方向へ進めばそれでいい。

私は仕事、プライベート問わず、かなりこの方法を使っている。

元々、他人のアイデアや発言を否定するより膨らましたいと思うタイプだったこともあるけれど、心の中でそう思うだけでなく、「面白い」と声を出して相手にも伝える、というのは意識的に始めた気がする。今はもう無意識で出るけれど。

※救いようがないほど面白くないものはさすがにしてない。でも、それも私の視野が狭くて面白さが見出だせないだけかも知れない。

さて、とにかく「面白い」と言っておくことの何がいいのか。

  • 相手は私に何かを言っても、否定されずに何かプラスになると思うようになるので、アイデアやネタを言う心理的なハードルが低くなり、萎縮せず色々しゃべってくれるようになる。
  • 私が「面白い」の説明をすることで、発言主はむしろ客観的に自分の発言を見つめなおすことになる。私の説明で自説の欠点に気づいたり、別の方向を思いついたりもできる。
  • 反射的に答えた「面白い」を説明しないといけないので、他人の発言を触媒にして自分の中でアイデアがどんどん膨らむ。意図的に誤解して、自分が本当に面白いと思うアイデアに変化させてしまってもいい。
  • 他人の面白さを簡単に認めて、それに乗ったりすることで、自分の意見やアイデアにこだわる必要がなくなる。面白いもの、良いものがこそが大事で、きっかけは誰でも良いと思えるようになる。
  • 場にひとりぐらいはいる「とにかく否定」するタイプの人間を牽制できる。

とにかく否定から入るタイプは本当に迷惑で、こういう人のおかげで「私は良いアイデア、面白いネタが言えないし…」としゃべってくれない人も多い。

良いか、面白いかは本人ではなく、聞いたみんなが責任を持って受け止めることなので、とにかく全部しゃべってもらうことが大事だと思う。

ただどういう方法でもいいから全員にしゃべらせればいいというわけでもなく、最も最悪なのは「アイデアをひとり○個言って」と順番に言わせ「では多数決をとります」みたいなことを平気でやるタイプ。

それぞれが用意したネタを元にして、誰のものでもない、その「場」が作ったアイデアが生まれ、決を取る必要もなく、参加メンバー全員が納得という状態になるのが理想のはずだけど、そういうタイプはその状態を多分、経験したことがない(としか思えない)。

これは仕事だけでなく、プライベートや単に日常会話でもそうですけどね。

というか、日常のレベルでこういうことが出来ない人は会議でも出来ないと思う。

 

会話でもそうだけど、私は昔から何でも「面白く誤解」することにしている。

ゲーム雑誌の小さなゲーム紹介を面白く誤解してわくわくしたり、映画の予告編も当然、面白い方向に誤解する。小説の巻末にある短い紹介文もそう。

真実としてそれらの作品が想像通りの面白さかどうかは関係ない。

私自身が面白いと思えるかどうかだ。

だからこれは決して美徳ではなく、極めて自分勝手で快楽主義的な考えなんだろうな、と思う。あれこれ否定するより、こちらの方が快楽が圧倒的に多くなるというだけの。